読む音楽 「音楽の危機 《第九》が歌えなくなった日」 岡田暁生 著
久々の「読む音楽」のコーナー、読今回は世界的なコロナ禍でライブやコンサートが中止となっている今、今後のウィズコロナ/ポストコロナ時代の音楽の姿について、西洋音楽史をご専門とする音楽学者 岡田暁生さんが深く考察した一冊をご紹介します。今回はクラシック音楽ファシリテーターの飯田有抄さんによる寄稿です。
コロナが変えた音楽の「危機」的状況
長引くコロナ禍ですが、昨年4月7日に1回目の緊急事態宣言が出された前後から、軒並みコンサートやイベントが中止・延期となったことは、みなさんの記憶にも新しいことと思います。何千人・何万人規模を動員して熱いライブを繰り広げるポップスやロックのみならず、数十人から数百人、多くて2千人規模の集客で行われるクラシック音楽の世界でも事態は同じでした。
オーディエンスが立ったり踊ったり歌ったりしないクラシックのコンサートであっても、密は密。ステージ上の奏者はといえば、数十人から百人規模のオーケストラや、これまた百人規模の合唱団が揃うこともあるので、やはり密。その最たる象徴ともなってしまう演目が、年末恒例の「第九」、ベートーヴェンの交響曲第9番です。
12月ともなれば、プロ・アマ問わず多くのオーケストラ・合唱団が音楽ホールで第九を演奏するという、よく考えてみたら少々特殊なまでに盛り上がってきた年末恒例イベントですが、昨年はコロナ禍において一掃されてしまいました。ベートーヴェン生誕250周年というメモリアル・イヤーであったにも関わらず……。
今回ご紹介する岡田暁生さんの著書「音楽の危機 《第九》が歌えなくなった日」は、これまで当たり前に行われてきた音楽ホールでのコンサートが行えず、生演奏という音楽文化が世界から消えてしまった(かのように見えた)最初の頃、つまり1回目の緊急事態宣言下の2020年の4月から5月にかけて執筆されたものです。
未知なるウィルスの恐怖に世界が包まれ、誰も先を予想することのできない事態の中で、音楽関係者たちは向こう数ヶ月の仕事を一気に失い、文化どころか生活の基盤すら目処の立たない状況に突き落とされました。いくら「音楽は不要不急のものじゃない! 感動を与えてくれる大事なものなんだ!」と声を荒げても、「ウィルスの危険性」「人命優先」という言葉の前では、どこか空回りする感覚が蔓延していました。タイトルの「危機」という言葉は大袈裟でも何でもなく、まさにその時の業界の空気をそのまま示すものでした。
岡田さんは本書と同じ中公新書で「西洋音楽史」や「音楽の聴き方」などを出され、クラシック音楽の歴史や需要、オペラやピアノ音楽などについてもわかりやすく理解を促す本を書かれており、現在は京都大学で教鞭をとっておられる音楽学の先生です。コロナ禍における音楽文化の「危機」的状況を、岡田さんのような歴史的にも体系的にも広く深い視座から捉えた時に、どのような提言が可能なのか。それが本書の注目ポイントです。
「第九」は近代社会の象徴であり続けた
シラーによる人類愛を謳ったテクストの大合唱で盛大に締め括られる「第九」は、疑うまでもなく、クラシック音楽の最高傑作として君臨し、現代の私たちの心をも揺さぶるものであることに間違いはありません。しかし岡田さんは、作品の素晴らしさを認めながらも、「第九」の演奏に表象される音楽文化や、それをよしとする社会のあり方というものを冷静に、鋭く分析しています。
多くの苦難があったとしても、最終的には人々が肩抱き合うようにして集い、人類愛を高らかに歌い上げ、「勝利」を宣言する最終楽章に向かって突き進む——「第九」全体のプロットそのものが、西洋近代の考え方・社会のあり方を象徴するものだ、と岡田さんは指摘します。フランス革命期に生きたベートーヴェンが、誕生したばかりの市民社会のあり方を方向付けるかのように力強く描いた物語、「右肩上がりに盛り上がる時間」、それが第九であると。そしてベートーヴェン以降も、最新鋭の巨大ホールが誕生するたびに、オープニングセレモニーとして第九が記念上演され続け、作品のもつ力は誕生から200年近くに渡り疑われることなく、その機能が保たれてきたのです。
「(第九は)市民社会の友愛のシンボルであるのみならず、近代の大量人口集中型社会の輝ける象徴であった。密集によって発生する社会の熱気を可視化するのである」(p.118)
フルトヴェングラー指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の録音、1942年3月の録音(p.131で紹介されている演奏)
ベートーヴェン : 交響曲 第9番 「合唱」
ところが、第九が「近代市民社会/資本主義/テクノロジー讃歌」として象徴してきたその世界こそが、コロナという疫病によって大きく揺さぶられ、これまで確固としたものとして築き上げられてきた近代的な文化や社会のあり方そのものに亀裂が生じた、と岡田さんは指摘します。人々が密になってこそ実現可能となる第九のような作品が演奏できない現実は、「『文化』がウイルスとそれについての衛生学的知見の前に屈した」ことに他ならないのです。
ただし岡田さんは、それが寂しく残念なことだ、という論調で書き進めているわけではありません。本書の後半ではむしろ、これまで人々の思考を方向付けてきた、近代社会・資本主義社会そのものが、現代の私たちの生き方、生きていかなければいけない環境とのズレが生じていること、その古い体制にしがみつくことへの危険性を指摘します。
私たちが「第九」に感動し続けるのも良いけれど、一方で「音楽がもたらす『感動』のどこかに、意図せざる善意の欺瞞が入り込んでこないとは限るまい。そろそろ思考回路の中から一掃しなくてはならないはずの、旧態依然たる『近代』の思考モデルを温存させ、あるいはそれがなお有効であるかのような錯覚」(p.134)から、私たちが逃れることのできるある種のチャンスとして、このコロナ禍を捉えてみてはどうか、という提言へと展開していきます。その展開にいたるまでの、岡田さんの社会学的・音楽学的見地からの緻密な分析はきわめて面白く、説得力のある展開ですので、ぜひ本文で読んでいただきたいと思います。
コロナ以降、新しい生き方のモデルを示す音楽とは
そこからさらに、最後の二つの章で岡田さんは、近代社会を表象する「第九」、すなわち「右肩上がりに盛り上がる時間」の音楽モデルとは異なった、多様な「時間モデル」の作品を例示していきます。
たとえば、J.S.バッハの音楽。「平均律クラヴィーア曲集」にみられるように、決して終わりにむけて高らかに歌い上げるのではなく、淡々と安らかに、永遠の時間へと続いていくように終わる作品。これを「帰依型」としています。また、ハイドンやモーツァルトの作品は、「終わりに対して過剰な執着」のない「定型型」、シューベルトの交響曲第7番「未完成」やチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」のように、弱々しく息絶えて終わる「諦念型」、シューベルトの交響曲第8番「グレイト」やラヴェルの「ラ・ヴァルス」のように、加速の果てに突然終わる音楽を「サドンデス型」などと名づけ、ベートーヴェンの「勝利宣言型」の音楽的時間とは異なる類型として挙げています。
シューベルトの「未完成」は、交響曲が通常4楽章で構成されるのが常だった時代に、2楽章まで、つまり文字通り未完成のまま残された作品。作曲家が途中で亡くなったわけではありません。作曲当時シューベルトは25歳でした。
さらに、ベトナム戦争時代の五人の作曲家の作品を紹介しています。
ラ・モンテ・ヤングの瞑想的な作品やパフォーマンスとしての性質の強い作品(「デヴィッド・チュードアのためのピアノ曲 第1番」など)、100台のメトロノームがなり終わるまで待つというジョルジュ・リゲティの作品「ポエム・サンフォニック」、ルイ・アンドリーセンの凶悪なノイズを生み出す仕組みをもった「労働組合」、ミニマル・ミュージックの先駆的な作品であるテリー・ライリーの「In C」、あえて奏者を混乱に陥れるフレデリック・ジェフスキーの「パニュルジュの羊」といった作品群です。
これらの作品では、鳴り響く音と音との関係性に統一感や方向性や解決などは一切求められません。その代わり、提示される重要なファクターといえば「ズレ」という要素です。気持ちよくズレるか、ストレスフルにズレるか、作品によって「ズレ」にもさまざまな表現方法があることも紹介されています。
テリー・ライリーの「In C」。演奏するごとに姿が変わる音楽なので、CDにパッケージ化された演奏は、あくまでひとつの実例としてあげておきます。
音楽の多様な時間モデル、あえて「ズレ」をフィーチャーする音楽の存在は、全員が一つの方向を向いて「勝利」を目指す近代的思考とは異なる視点を促してくれるものであり、「新しい生き方モデル」を示してくれるのだと岡田さんは述べています。
これらの事例を挙げながら岡田さんは、これから先、コロナ禍に見舞われなければ生まれ得なかったような、新しい発想による音楽作品が創造されていくことを願い、自身のアイディアも提示しています。そして「芸術において/芸術によって『コロナに勝つ』ということがもしありうるとするなら、それは『こういうことでも起きなければ考えるはずもなかった音楽のありよう』を実現すること以外ではないはずだ」と主張しています。
「歌える日」が戻りつつあっても
冒頭でご紹介したとおり、この本は昨年(2020年)4月から5月にかけて執筆されたものであり、バタバタとコンサートが中止・延期となり、再開の目処がまったく立っていなかった時の考察となっています。
岡田さんが示したように、「第九」のような近代的価値観をもった音楽、それを再現する慣習に対して、人々が即座にドラスティックに感じ方・考え方を変化させることはないかもしれません。おそらく昨年秋以降からの流れを見れば、感染が落ち着けば、また日本の年末における第九文化などが復活するのではと思います(一方で、過去最多の感染者数が更新される中、延期・中止を余儀なくされたコンサート・イベントも再び増えていますが)。やはりホールで生演奏を聴くという体験がもたらす、あの特有の感動、魂を震わせてくれるような感覚を、人々はそう簡単に忘れてしまったり、捨て去ったりはしないのではないか、と思われます。
第九が誕生した時代は啓蒙主義思想の時代でもあり、人々は勝利へと向かう大きな物語を求めていたでしょう。しかし、21世紀の現代の人々はもしかすると、より軽やかに、多様にあるエンターテインメントの一つとして、「第九」公演に接しているかもしれません。もしそうであるならば、やはりコロナが収束すれば、第九公演の慣習は、わりとすぐに戻るような気もします。それが良い・悪いということではなく、人々の考え方や価値観や慣習の変化とは、世界規模の疫病蔓延という、これだけドラスティックな事態が起こっても、ゆっくりとしか進まないのかもしれません。
とはいえ、目標・目的を掲げ、緻密なスケジュールを組んでいても、災害や疫病に見舞われ、突如すべてが覆される。そうした現実を、現代の私たちはこれでもかと突きつけられています。これまでの社会、価値観、生き方を見直し、変わりゆく環境に自らを適応させていくためには何が必要か。喉元過ぎて熱さを忘れるわけには、もはやいかないのです。そうした現状にヒントをもたらすものとして音楽芸術に光を当てたのが本書です。ぜひ手にとってみてはいかがでしょうか。
クラシック音楽ファシリテーター 飯田 有抄