苦悩から輝ける再生へ。ボサノバの名曲「三月の水」
オリンピックは終わりましたが、初夏にはサッカーのワールドカップがあります。開催地はサッカー王国であるブラジル。そしてブラジルといえばサンバ、そしてボサノバですよね。今回はボサノバの生みの親、アントニオ・カルロス・ジョビンについて、そして彼の名曲「三月の水」についてご紹介しています。ぜひご覧ください。
ボサノバといえば「素敵なカフェに流れている、オシャレな音楽」といった印象がありますが、
楽器を演奏する方なら「ボサノバの曲は、実は難易度がかなり高く、
和声的に複雑な構造や転調をしている」ことをご存じかもしれません。
ボサノバというジャンルは、作った人たちも場所もわかっている、新しい音楽。
1950年代、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロにある、とあるアパートメントの一室で生まれました。
そこに入り浸っていたのが中産階級の裕福な学生たちであった
アントニオ・カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルトをはじめとする多くの音楽好きなインテリの若者たち。
彼らはブラジル音楽のサンバに、当時自分たちが熱狂していたジャズや、
ドビュッシーやラヴェルなどのフランスの作曲家たちの斬新な和声感覚を採り入れながら、
今までにないような洗練された音楽を作り上げました。
それらは「新しい感覚」という意味で「ボサノバ(Bossa:隆起・こぶ,Nova:新しい)」と名付けられました。
多くのボサノバの名曲が複雑な和声進行や頻繁な転調をしている理由はそこにあります。
その中心にいた人物が、後に20世紀を代表するブラジルの作曲家とまで称されるアントニオ・カルロス・ジョビンです。
アントニオ・カルロス・ジョビンを一躍有名にしたのは、かの名曲「イパネマの娘」です。
1962年にジョビンが作曲し、ヴィニシウス・ヂ・モライスが作詞したこの曲は、
アメリカのジャズサキソフォン奏者スタン・ゲッツとジョアン・ジルベルトとの連名で
1964年に発売されたアルバム「ゲッツ/ジルベルト」に収録され大ヒットを記録。
クールな曲想とスタン・ゲッツのテナーサックスの音色、そしてジョアン・ジルベルトの奥さんであったアストラット・ジルベルトの
ボーカルが洗練されたボサノバのフィールにピタリとはまり、アメリカでボサノバの大ブームが起こります。
その後「イパネマの娘」はフランク・シナトラも歌い、これもまた大ヒット。
それからは数多くの人に歌われ、今やカバーされた数はビートルズの「イエスタデイ」に次ぐとさえいわれています。
マンションの一室から、世界的な大ヒットメーカーへ。
しかし伝記などによると、ジョビンはそんな大成功とは裏腹に成功への戸惑い、
本国ブラジルでの無理解、最初の妻との不和などのさまざまな悩みを抱え、精神的に追い詰められて辛い時期を過ごしていたそうです。
そして苦悩と葛藤を抱えながら「イパネマの娘」から約10年を経た1973年、ジョビンは「マチータ・ペレ」というアルバムを発表します。
そこに収録されているのがボサノバの中でも屈指の名曲と言われる「三月の水」です。
「三月の水」の素晴らしさはメロディだけでなく、シンプルで深みのある歌詞にもあります。
ジョビン自身による詞は、「枝 石ころ 行き止まり 切り株の腰掛け〜」という
名詞の連続であり、そこには、死、釘、足の擦り傷など、苦悩や死を連想させるものと
心の喜び、三月の水それは人生の約束、という再生を感じさせる言葉が交錯しています。
ジョビンのしわがれた声で淡々と歌われる言葉たち。
そこには、長く続いた暗い森のような世界から、ゆっくりと、しかし確実に、明るい陽ざしの中へ飛び出たような救済感、
ジョビン自身が苦悩から輝ける再生へと向かっていく予感があります。
そしてこの曲を聴くたびに、リスナーである私にも「明けない夜はないのだ、
自分を強く持てば救済はあるのだ」という励ましをもらっている気がします。
そんな深い感動を与えてくれる「三月の水」ですが、
今回はあえて初出の「マチータ・ペレ」ではなく、翌年1974年発表の「エリス&トム」に収録されたバージョンをお薦めしたいと思います。
エリスとはエリス・レジーナ。当時ブラジルでもっとも人気があった女性シンガーです。
ここでのジョビンとエリスの「三月の水」は、まさに生きる喜びと輝きに満ちた歌です。
ジョビンはおそらく精神的危機から脱したのでしょう、穏やかで音楽への歓喜に溢れており、
エリスとのチャーミングな歌のやりとりは、レコーディングなのにお互いにふざけあっていて、
最後にはエリスは、もう完全に笑い転げています。
これはもう、音楽的なリラックスの極地といえるのではないでしょうか。
毎年3月には、ぜひ聞いていただきたいアルバムです。
アーティスト名:エリス・レジーナ&アントニオ・カルロス・ジョビン
アルバム・タイトル:エリス&トム
ユニバーサルミュージック
(Denon Official Blog 編集部 I)