素顔の音楽家たち 第6回 すべてを持っていた天才、メンデルスゾーン
後世の人を魅了する素晴らしい音楽を創造した作曲家、演奏家たちって、もし隣にいたら一体どんな人物だったんだろう、と思うことがありませんか。今回の「素顔の音楽家たち」は、メンデルスゾーンの人並み外れて恵まれた環境についてご紹介しましょう。
メンデルスゾーンの作品のうち、日本でもっともよく知られているのは「結婚行進曲」ではないでしょうか。
「ぱぱぱぱ~ん!」で始まる、あの、お馴染みの曲です。
あれは、シェクスピアの戯曲のために作られた劇付随音楽《真夏の夜の夢》の、12曲のうちの1曲です。
実はメンデルスゾーンは、歴史に名を刻んだクラシックの作曲家の中では、まったく異色の存在です。
彼は1809年、ドイツのハンブルクで大変裕福なユダヤ人家庭の長男として生まれました。
祖父はカントにも影響を与えたという高名な哲学者、父親は成功した銀行家、母親は大実業家の娘にして音楽の才能を持った女性という、経済的にも才能的にも大変恵まれたお家柄です。
貴族ではなかったけれど、広大な敷地を持つ館でたくさんの使用人たちに囲まれて育った、正真正銘のお坊ちゃまでした。
つまり、モーツァルトやベートーヴェンをはじめ多くの作曲家が経験してきたお金の苦労など、一分たりともしていない人なのです。
そんなメンデルスゾーンが幼い頃から受けた教育も、尋常じゃありません。
ドイツ語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシャ語、英語、文学、数学はもちろん、体操や乗馬、さらには音楽や絵画といった芸術に至るまで、父親が各分野の優秀な専門家を家庭教師として雇っていたそうです。
メンデルスゾーンは毎朝5時に起きて、ぎっしり組まれた勉強スケジュールをこなしていたため、子供の頃からいつも寝不足だったとか。
お金持ちの家に生まれたら生まれたで、なかなか大変なんですね。
もちろん、音楽についても、人並み外れて恵まれた環境にありました。
自宅の大広間やホールでたびたび音楽会が開かれていたので、当たり前のように一流の音楽家たちの演奏にふれて育ったのです。
そのうえ、メンデルスゾーン家の子供たちは、情操教育の一環として、音楽理論、声楽、ピアノを優秀な教師たちから学んでいました。
特に、早くから音楽の才能を発揮したメンデルスゾーンは、ヴァイオリンとヴィオラも学び、8歳からはバッハの研究家で当時一流の作曲家であったツェルターにも師事しています。
そして、なんといってもすごいのは、メンデルスゾーン家にお抱えのオーケストラがいたこと!
おかげで彼は、10歳の頃に作った自作品をそのオーケストラで試演してみることができました。
こんな人は、歴史に名を刻んだクラシックの作曲家の中では、後にも先にもメンデルスゾーンだけでしょう。
音楽家としては早熟の天才肌だったメンデルスゾーンは、弱冠17歳で、《真夏の夜の夢》の序曲を書いています。
さらに、彼の才能は音楽にとどまらず、12歳で喜劇を執筆するなど、文才もありました。
絵も巧みで、素晴らしい風景画をたくさん書いています。
おまけに、上品で整った顔立ち、すらりとした体型で、正確も明るくて温和。
家族仲も大変良く、まさに“すべてを持って生まれてきた”人だったのです。
だから、なのでしょうか。
《真夏の夜の夢》をはじめ、メンデルスゾーンの作品はどれも実に優雅で、均整のとれた美しさに満ちています。
彼の同時代の作曲家には、ショパンやリスト、シューマンらがいますが、メンデルスゾーンの作品は、彼らの作品とは明らかに一線を画しています。
憂鬱や満たされぬ思い、湧き上がる情熱など、感情のうねりに身を任せるようなところがなく、非常に安定していて、古典的な香りが漂っているのです。
ロマン派の時代に生きながら、メンデルスゾーンが後世の人々から「新古典派」などと呼ばれるゆえんもそこにあります。
どんな天才でも、作品を作るエネルギーの根底には、何かを求める気持ちがあるはずです。
人々に自作品を聞かせたい、演奏の機会がほしい、才能を認められたい、経済的に成功したい等々……。
その点、すべてが満たされていたメンデルスゾーンという人は、いったい何を求めて曲を作っていたのでしょうか。
凡人には見当もつきませんが、彼の音楽が美しく、才能に満ちていることだけは、その作品にふれればわかります。
どうぞ、代表作である《真夏の夜の夢》で、その素晴らしさをお確かめください。
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アーティスト名:メンデルスゾーン
アルバム・タイトル:劇音楽《真夏の夜の夢》
ユニバーサルミュージック
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(ライター 上原章江)
『クラシック・ゴシップ!』 ~いい男。ダメな男。歴史を作った作曲家の素顔~
上原章江 著 ヤマハミュージックメディア