素顔の音楽家たち第10回 初演が大騒ぎ!ストラヴィンスキーの「春の祭典」
音楽の歴史に名を残している偉大な作曲家や演奏家、そんな天才たちのエピソードをご紹介する「素顔の音楽家たち」。今回はストラヴィンスキーの《春の祭典》の初演が斬新すぎて大騒ぎだったというお話をご紹介します。
《火の鳥》《ペトルーシュカ》《春の祭典》のバレエ3作品で知られるストラヴィンスキー。
20世紀を代表する作曲家のひとりであり、現代音楽の扉を開いた人物として知られています。
彼が誕生したのは、1882(明治15)年。
そう聞くと、けっこう昔の人のような気がしますが、88歳まで生きた彼が亡くなったのは1971(昭和46)年。
わりと最近まで生きていた人なのです。
1959年に来日し、NHK交響楽団と共演したときの映像なども残っています。
近年では、2009年に映画『シャネル&ストラヴィンスキー』が公開されたこともあって、ココ・シャネルの元恋人としても知られるようになりました。
シャネルは、ストラヴィンスキーの才能を、新進気鋭の作曲家として世に出始めた頃から高く評価していて、作曲に専念できるように自分の屋敷を提供したり、彼が作曲したバレエ作品の公演のために多額の寄付をするなどして、彼の活動を支えていました。
その頃、ストラヴィンスキーはすでに幼なじみのカテリンネと結婚していて子供もいたのですが、パトロネスであったシャネルと恋におちてしまいます。
ただし、ふたりの関係は、一瞬盛り上がってはすぐに沈静化した、嵐のようなものだったといわれています。
さて、シャネルといえば、当時、時代の最先端を行く女性だったわけですが、そんな彼女と恋におちたストラヴィンスキーもまた、時代の最先端を行く作曲家でした。
その頃、彼の音楽がいかに革新的だったかを物語る、バレエ《春の祭典》の初演時のエピソードをご紹介しましょう。
この作品は、20世紀のはじめにパリを中心に活動したバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の公演のために用意されました。
このバレエ団は、ロシア出身の芸術プロデューサーだったセルゲイ・ディアギレフが率いた団体で、1929年に解散するまでの間、ニジンスキーやバランシン、アンナ・パブロワのほか、ジャン・コクトー、パブロ・ピカソ、ドビュッシー、サティら、才能あふれる芸術家たちが続々と参加しています。
《春の祭典》の題材は、もともとストラヴィンスキーの発想によるもので、自分たちの神を信仰する架空のロシア人たちが春の訪れを願って処女をいけにえに捧げるという、ショッキングなものでした。
振り付けは、まだ新人だったニジンスキーが担当、衣装は古代ロシアをイメージしており、さまざまな点で、それまでのバレエとは一線を画していました。
問題の初演が行われたのは、1913年、パリのシャンゼリゼ劇場。
「序曲」が始まると、耳慣れない不協和音に、客席がざわめき出します。
さらに、幕が上がると、何拍子なのか見当もつかない不思議なリズムが鳴り響き、ステージ上では、エキゾチックな衣裳をつけた女性たちが、両脚をX脚にしたり、頭を傾けて飛び跳ねたりする、奇抜な振付を繰り返していました。
やがて観客たちの野次や足を踏み鳴らす音で音楽はほとんど聞こえなくなり、劇場のオーナーが飛び出してきて「とにかく最後まで聴いてください!」と、叫ぶほどの騒ぎに。
その大騒ぎの中、ニジンスキーがイスの上に立って大声で数を数えてリズムをとりながら、なんとか公演が続けられたそうです。
客席にいたフランス音楽界の重鎮サン=サーンスは、公演が始まると、憤慨してすぐに席を立ってしまったとか。
しかし、初演が大騒ぎになったということは、《春の祭典》が、それまでにない斬新な作品だったということを何より物語っているといえるでしょう。
こういう思い切った作品の音楽は、古典的な作風を愛し、音楽界の王道を歩いていたサン=サーンスのような作曲家には決して作れません。
ストラヴィンスキーが、勇気ある改革者だったことは間違いないのです。
ところで、問題の初演のシーンは、先にふれた映画『シャネル&ストラヴィンスキー』でも生々しく再現されています。
原作は小説なので、すべてが史実ではありませんが、当時の雰囲気がよく伝わってきますので、ご興味がある方はぜひどうぞ。
アーティスト名:ストラヴィンスキー
アルバム・タイトル:ストラヴィンスキー
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(ライター 上原章江)
『クラシック・ゴシップ!』 ~いい男。ダメな男。 歴史を作った作曲家の素顔~
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上原章江 著 ヤマハミュージックメディア