素顔の音楽家たち第二回 ロッシーニはユーモアがお好き
後世の人を魅了する素晴らしい音楽を創造した作曲家、演奏家たちって、もし隣にいたら一体どんな人物だったんだろう、と思うことがありませんか。「素顔の音楽家たち」2回目は「ロッシーニはユーモアがお好き」。
2回目となる今回は、クラシック界随一のエンターテイナー、ロッシーニの登場です。
ロッシーニといえば、「セビリヤの理髪師」や「ウイリアム・テル」などの傑作で知られる、イタリア・オペラ界の巨匠。
日本でもっとも有名な曲は、「ウイリアム・テル」序曲のフィナーレ部分「スイス軍の行進」でしょう。
いまから20年ほど前に放送していたお笑いテレビ番組『オレたちひょうきん族』のオープニングテーマに使われていた曲といえば、
ピンとくる人も多いはずです。
18歳でオペラ作曲家としてデビューしたロッシーニは、23歳でナポリのサン・カルロ劇場の音楽監督に就任すると、
その地でオペラの傑作を続々と発表し、イタリアはもちろん、ヨーロッパ中に“ロッシーニ旋風”を巻き起こしました。
いつの時代も、芸術家の悩みといえば、自分の芸術性を一般大衆が喜んで受け止めてくれるかどうか、つまり、「売れるかどうか」です。
モーツアルトやベートーヴェンは、自分の芸術性を突き詰めるほどにどんどん売れなくなって、
特に晩年はわびしい思いをしていますが、ロッシーニは違いました。
時代の流れと、聴衆の好みを感じ取る天才だった彼は、自分が本来持っている芸術性と、
一般大衆の好みの間で上手に折り合いをつけつつ、みんなが大喜びするような作品を作り続けたのです。
そして、若いうちにバンバン儲けたかと思うと、さっさとオペラから引退し、そのままお金に困らない一生を送りました。
そんな“超売れっ子”だったロッシーニがオペラの筆を折ったのは、なんとまだ37歳のとき。
その後も作曲活動は続けたものの、44歳で完全に音楽の表舞台から引退し、
その後は76歳で亡くなるまで、うらやましいような楽隠居生活を送りました。
人気作曲家だったロッシーニが早々にオペラ界から身を引いた理由を彼自身は体調不良と、
大好きな料理を楽しむため、そしてトリュフを探す豚を飼育するため、としていました。
しかし、ロッシーニが最後のオペラを発表したころ、彼の次の世代にあたるマイアベーアの人気が急上昇中だったのです。
時代の流れと聴衆の好みに敏感だったロッシーニは、自分はこの流れには乗り切れないと、いち早く判断を下したのかもしれません。
彼はいつも、自分を間抜けな怠け者であるかのように見せかけていましたが、実際にはとても頭の切れる男だったのでしょう。
さて、そんなロッシーニが晩年、“料理と音楽の夕べ”という会を開いていたことは有名な話です。
その会は、土曜日の夕方に開かれ、ロッシーニに招待された友人、貴族、音楽家などの著名人が、
パリ9区にあったロッシーニの豪華なアパートメントに集まって来て、グルメな彼が用意させた豪華料理と音楽を楽しむというものでした。
そんなときユーモア好きのロッシーニは、これから食事をするシチュエーションにはおよそそぐわない医療用の「胃の洗浄器」を部屋に飾ったりして、
客人たちを笑わせたそうです。
本当に、人々を喜ばせるのがお好きだったんですね。
さらに、食事の後に行われた音楽会では、ロッシーニは自分のことを“四流ピアニスト”と呼び、
引退後に趣味で作ったピアノ曲や歌曲の小品を自分で披露して、人々を楽しませました。
晩年に作曲したそれらの作品群に彼がつけたタイトルは、その名も「老いのいたずら」。
そこに含まれていた曲名は実にユニークで、
「すぐに効く鎮痛剤」「痙攣した前奏曲」などは、持病の多かったロッシーニならではの発想でしょう。
「やれやれ!小さなえんどう豆よ」「ロマンティックなひき肉料理」「バター炒め」なんていう、
グルメだった彼ならではのユーモアが感じられるものまでありました。
曲名はともかく、「老いのいたずら」の作品群はバラエティーに富んでいて、当時の音楽界に対する風刺も効いていました。
ドビュッシーやサティを思わせるような新しい試みもされていて、
ロッシーニがただの流行作曲家でも、ふざけたグルメおやじでもなかったことを感じさせてくれます。
彼は晩年、自宅に訪ねてきたワーグナーに作品を絶賛されたとき、
「私の作品など、ハイドンやモーツァルトの傑作に比べたら、気の抜けたビールみたいなもんです」と答えたそうですが、
今日歴史に名を残した偉大な作曲家のひとりとして認められていることは、みなさんご承知の通りです。
ロッシーニ:ピアノ作品全集第3集 老いのいたずら – 第5集「幼い子供たちのためのアルバム」
(ライター 上原章江)
『クラシック・ゴシップ!』 〜いい男。ダメな男。歴史を作った作曲家の素顔〜
上原章江 著 ヤマハミュージックメディア