デノンサウンドマスター山内慎一が語る「AH-C630W、AH-C830NCWのサウンドチューニング」
デノンのサウンドフィロソフィー「Vivid & Spacious」を実現した高音質で話題を集めている、デノン初の完全ワイヤレス・インイヤーヘッドホンAH-C630W、AH-C830NCW。今回は全てのデノン製品の音質に責任を持つサウンドマスター山内慎一に、AH-C630W、AH-C830NCWの音作りについてインタビューしました。
Hi-Fiオーディオの音決めをする人が ヘッドホンの音づくりをしているのが面白い
●デノンとしては初の完全ワイヤレス・インイヤーヘッドホンとなるAH-C630W、AH-C830NCWですが、サウンドマスターとして山内さんが目指した音は、どんな音ですか。
山内:私が目標としたのは、デノンのHi-Fiオーディオのサウンドコンセプトである「Vivid & Spacious」を完全ワイヤレス・インイヤーヘッドホンでも再現することでした。しかもBluetoothヘッドホンという市場は製品が非常に多く、次々と新しい製品が出てくるマーケットですから、このマーケットに出ていく以上「さすがデノン!」と言われるような卓越した高音質も実現すべきだと考えました。
デノンサウンドマスター山内慎一
●そのために、デノンならではのサウンドチューニングが施されたのでしょうか。
山内:もちろんそうです。ただしデノンはHi-FiシステムやAVアンプも作っている総合オーディオメーカーですが完全ワイヤレスは今回が初号機となります。そこで今回の開発チームは熟練した中核メンバーによる少数精鋭の形をとりました。円滑にかつスピーディに開発を進めることができ、良かったと思います。私個人のテーマとしては、マーケットの中でもすでに大きな実績があり認知度が高い先発メーカーの中で、特に音質においてどこまで存在感を示せるかというところでした。困難もあると思いましたがこれはやるしかないとスイッチが入りました(笑)。
サウンドチューニンングに関して言えば競合メーカーではHi-Fiオーディオの音決めをしている人間が完全ワイヤレス・インイヤーヘッドホンの音作りをしていることはあまり多くないと思います。ですがジャンルに関わらずブランドの音作りの方向性が統一されることは大変有意義です。また私自身、様々なジャンルの音質チューンを行うことについては純粋に興味や好奇心がありますし、多くの示唆やノウハウが得られるので積極的に関わっています。
2021東京インターナショナルオーディオショウで展示されたAH-C630W、AH-C830NCW
●確かにHi-Fiシステムの音決めをする人が完全ワイヤレス・インイヤーヘッドホンも手掛けるケースはあまりないと思います。それってなかなか大変なことですよね。
山内:けっこう大変でしたが、私がほぼ一人で作り上げたSX1 LIMITED EDITIONシリーズの開発の時と同じように、試聴室にこもって一人でずっとやってました。SX1 LIMITED EDITIONもそうでしたが、AH-C630W、AH-C830NCWも、いろいろな人に途中で聴いてもらうということはあまりせずに、自分の感覚を頼りにチューニングを続けました。多くの人の感想や意見を取り入れて仕上げていく形もあるとは思いますが、その結果平均的な音になってしまうケースもありますし、途中段階の足りないところなどは自分でも大体認識できているものです。結局一つの最終的なポイントがイメージできていればそれに向かって試行錯誤するだけですね。実際時間を忘れるほど熱中して、終わったときには旅をして帰ってきたような感覚になりました。
ここまでやっている人がいるのか、と思うほど細部まで徹底的にイコライジングで追い込む
●音作りの実際について、具体的に教えてもらえますか。
山内:完全ワイヤレス・インイヤーヘッドホンでもHi-Fiシステムと同じように、トータルでのサウンドチューニングになります。ただし完全ワイヤレス・インイヤーヘッドホンの場合、試作を繰り返した上で筐体やドライバーなどのハードウェアが決まると、その後はハードウェアにはできるだけ手を加えず、基本的にイコライジングを含めた、ソフトウェア制御のデバイスのセッティングで音を決めていくことになります。最終の音はそこで決まりますし、ここでしくじると、それまで築いてきた音の良さを一気に壊してしまうことになる怖さもあって、作業には細心の注意を払いました。もちろん上手く調整すると良さがさらに強調され別の世界が開けてくるという面白さもあります。
AH-C630W、AH-C830NCWの発表会でサウンドチューニングの方向性を説明する山内
●繊細な作業なんですね。
山内:例えば1つの楽器の音をイコライジングで調整するには、強調したい部分を持ち上げたり不要な帯域をカットするなど比較的やりやすい面もあると思いますが、ステレオミックスされた素材を全体的にイコライジングするのはすごく難しいんです。本当に様々な要素が絡み合っているのと多様なソースで検証する必要もありますので。すべてにおいて納得でき、素材の持っているものを素直に再現できるようにするには、非常に細かい作業が必要になります。予想通りにワークしない時など、時には別種のイコライザーを使って最適なポイントを探すことも行いました。
基本的にはパラメトリックイコライザーというツールを使っていますが、終盤の方になってくると低域においては5Hz、10Hzとヘルツ単位でポイントを動かし、ゲイン調整も0.1とか0.2ステップぐらいで調整します。完成度が上がってくると、そのぐらい動かしただけでも、音にすごく大きな影響が出てきます。というのも、高い音の帯域を動かした場合、それによって低音域の聴こえ方にも影響が出てくることもあります。それでまた低域もいじる、そうすると今度は真ん中をどうするんだと(笑)。そういうことをやっていくと、もう無限に作業が続いてしまい、結局こういった作業で89バージョンぐらい作りました。本当に微妙で繊細な作業なので、この業界でここまでやってる人がいるのか、とも思いながら音決めしていました。
山内が評価で使用したモデル。89とナンバリングされている
●ヘッドホンの音質検討は、スピーカーの音質検討とは違いますか。
山内:かなり違います。ヘッドホンの検討は耳に直接負担がかかるので、やはり疲れますし、長時間の試聴だと感覚や基準が徐々にズレてしまうことがあります。ですから仕上がったと思った後で何度もチェックしますし、その場でいいなと思っても、一晩おいて翌日にもう一度聴き直すという作業がずっと続きました。
●AH-C630W用のイヤーチップを変更してAH-C830NCWのイヤーチップと同じものに変更したと聞きました。イヤーチップでも音は相当変わるのですか。
山内:イヤーチップは素材や形状でかなり音が変わりますね。AH-C630Wは当初、別のイヤーチップを採用する予定でしたが、AH-C830NCW用のイヤーチップをつけてみたらとてもいい音がしたので、若干コストの問題はありましたが変更しました。イヤーチップに関しては音の好みもありますし、耳の形も人それぞれですから、合う合わないがあるとは思いますが、まずはノーマルのイヤーチップで音を聴いていただきたいと思います。
ストレートなサウンドのAH-C630Wと低域に深みがあるAH-C830NCW
●AH-C630WとAH-C830NCWは両モデルとも好評ですが、どっちを買おうかと迷っている人もいると思います。モデルによる音の違いについて教えていただけますか。
山内:音質の前にまず機能面で、AH-C830NCWにはノイズキャンセリング機能があってAH-C630Wにはない、という違いがありますので、ノイズキャンセリング機能が欲しい方はAH-C830NCWをお選びいただくことになります。
AH-C630W(ブラックモデル)
AH-C830NCW(ホワイトモデル)
山内:そして音質面でのAH-C630WとAH-C830NCWの違いですが、低域やディテール表現などが違いますね。低域では輪郭や弾力感を含むプレゼンスなどです。よく似た形状の2モデルですが、やっぱりドライバーが違うので、音のニュアンスも違います。
AH-C630Wはわりとシンプルでフラットな音質ですが、AH-C830NCWはユニットがちょっと大きいこともあり、低音の深みが加わってきます。発表会でもクルマに例えて説明しましたが、AH-C630Wはシンプルで俊敏な素性の良いノーマルなクルマだとすると、AH-C830NCWはさらに少し足回りやエンジンが強化されたGT仕様みたいなイメージでしょうか。AH-C830NCWは低音の深みに加え、より細やかさも表現するオーディオマニアの方が好むような音質に仕上がっています。
AH-C630Wは10mmの真円のドライバーを採用
AH-C830NCWは11mm×10mmの楕円のユニットを採用
●私はAH-C630Wが、ストレートな印象がして好きでした。
山内:そうですか。意外と好みが別れますね。やはりクルマでも必ずしもスペックがよければいいのではなく、実際に乗ってみると乗り味が良くフィーリングがぴったりで愛着がどんどん湧いてくるってことがあると思うんです。AH-C630W、AH-C830NCWもそういう感じに仕上がったのは、私の狙いでもあって、よかったと思っています。
●最後にうかがいます。AH-C630W、AH-C830NCWは重厚なHi-Fiシステムとは対極にあるような製品ですが、音決めを通じてなにか感じる点はありましたか。
山内:デノンがサウンドフィロソフィーとして掲げている「Vivid & Spacious」を実際にHi-Fiシステムで体験していただくにはスピーカーや再生するハードウェアとある程度の試聴環境も必要です。一方ヘッドホンやイヤホンは、環境にかかわらず、いつでもどこでも我々が理想とする音を聴いていただける、ダイレクトに分かっていただける。そこが大きな違いですし、メリットかなと思いました。
たとえばYouTubeなどでAH-C630W、AH-C830NCWのレビューを見ていても、イヤホンユーザーの方が「Vivid & Spacious」をよくわかってくださって、とても鮮やかで空間も広いと言ってくれている。こんなに多くの人が印象を語ってくれるようなリアクションはとても新鮮で面白いです。
●ヘッドホンならどこでも楽しめますからね。
山内:そうですね。私も家に帰って、ベランダで夜空の星を見ながら自分が音作りしたヘッドホンで音楽を聴いたら、すごく良かったです。こういった使い方ができるのもヘッドホンならではの楽しみですね。
●私も屋外で音楽を聴くのが大好きで、いつもAH-C630Wを使っています。本日はサウンドチューニングのお話、ありがとうございました。
(編集部I)