デヴィッド・ボウイとギタリストたち。
2016年1月に惜しくもガンで死去したデヴィッド・ボウイ。ニューアルバムが出てその2日後に亡くなるという衝撃的な死は、あらゆる音楽ファンを驚かせ、悲しませました。今回のデノン公式ブログは追悼の意味を込め、デヴィッド・ボウイの音楽と、その音楽を彩ったギタリストについて。
2016年1月に亡くなったデヴィッド・ボウイ。享年69。
奇しくも1月8日の誕生日に、最先鋭のジャズミュージシャンを起用した意欲的なアルバム「ブラック・スター」が発売され、そのわずか2日後にボウイは死去しました。
そのアルバムが素晴らしかっただけに、音楽ファンにはとても大きなショックでした。
とはいえ、後の発表では、ガンでの闘病18ヶ月の末の死であったことが明かされました。
おそらくボウイ自身、これが最後のアルバムになることを自覚してのアルバムだったのでしょう。
こちらはレビューできるほどまだ聞きこんでいませんが、ボウイからのメッセージとして、心して聴きたいと思います。
さて、今回のブログではデヴィッド・ボウイの追悼の意味を込めて、デヴィッド・ボウイと、彼の音楽を彩ったギタリストについて書いてみたいと思います。
デヴィッド・ボウイはソロアーティストでしたが、その音楽には常に素晴らしいギターサウンドがありました。
ボウイに発見されるまでは無名に近い存在だったギタリストも多く、ボウイの「いいギタリストを見つける選球眼」は卓越したものだったと言えるでしょう。
アーティスト名:デヴッド・ボウイ
アルバム・タイトル:ジギー・スターダスト<2012リマスター>
ワーナーミュージックジャパン
規格番号:WPCR-16707
ボウイのグラムロック時代の名盤といえば、この「ジギー・スターダスト」でしょう。
タイトル曲「ジギー・スターダスト」のイントロのギターリフが非常に印象的ですが、この時期のボウイを支えていたギタリストが、ミック・ロンソンです。
ミック・ロンソンのギターは、まさに鋭角的で荒々しくグラマラス、ザクザクしたトゲのあるグラムロックを代表するようなサウンドです。
このギターがなければ、ジギー・スターダストはここまでカッコ良くないでしょうね。
ちなみにミック・ロンソンはボウイに誘われた時にはいったんミュージシャンをやめており、公園の庭師をしていたそうです。
ボウイがいなければ、このギターサウンドは世に出なかったかもしれません。
またこの時期のボウイのサウンドはミック・ロンソンのラウドなエレキギターの音に加えてアコースティックギターの音もミックスされているのも特徴的です。
こちらはひょっとしたらボウイ自身が弾いているのかもしれませんが、このあたりの美的なセンスもさすがボウイだといえるでしょう。
ボウイはグラムロックのアルバムを何枚か発売した後、アメリカ的なサウンドを志向するようになります。
その頃にギタリストとしてバンドに迎えたのがカルロス・アロマー。
カルロス・アロマーはプエルトリコ出身のギタリストですが、ボウイに誘われる前にはソウルの帝王、ジェイムス・ブラウンのバンドに在籍していたこともあるファンキーなギタリスト。
アロマーは1975年にボウイのバンドに入り、その後2000年代まで四半世紀以上に亘りボウイのアルバム、そしてライブを支える存在となります。
ちなみにボウイのアルバム『ヤング・アメリカンズ』には「フェイム」というファンキーな名曲が収録されていますが、この曲は、デヴィッド・ボウイ、ジョン・レノン、そしてカルロス・アロマーの共作としてクレジットされています。
おそらくセッションから生まれた曲なのでしょう。
アーティスト名:デヴッド・ボウイ
アルバム・タイトル:ヒーローズ
ワーナーミュージックジャパン
規格番号:WPCR-80095
次に紹介したいのが、ベルリン三部作と言われている、ブライアン・イーノがプロデュースしたアルバムから「ヒーローズ」です。
その中でもタイトル曲「ヒーローズ」は、そのサウンド、そして歌詞のメッセージ性を含め、ボウイの音楽を代表する曲といえるかもしれません。
この軽快なサウンドのバックトラックのギターはカルロス・アロマーですが、イントロから鳴り続けている印象的なギターのリフ、まるで永遠に鳴り続けているようなあり得ないロングトーンのギターは、キング・クリムゾンのロバート・フリップが演奏しています。
難解なプログレッシブロックの王様ともいえいるフリップをこのポップな曲で起用するというギタリストのセレクションもさすがですが、それに応えて、ここで唯一無二、彼しかあり得ないギターを弾くフリップもさすがです。
「ヒーローズ」もこのロバート・フリップのギターがなければ、ここまでの名曲にはならなかったのではないでしょうか。
ちなみにこのアルバムのプロデューサー/エンジニアであり最後のアルバムとなった「ブラック・スター」でもプロデューサーをつとめたトニー・ヴィスコンティが、当時レコーディングしたテープをトラックごとに再生しながら「ヒーローズ」のレコーディングの様子を解説する動画がありますが、これがまた、とても面白いのです。
興味がある方、ぜひご覧ください。
The Making of David Bowie’s ‘Heroes’
アーティスト名:デヴッド・ボウイ
アルバム・タイトル:レッツ・ダンス
ワーナーミュージックジャパン
規格番号:WPCR-80098
1980年代、MTV時代にデヴィッド・ボウイはキャリアの最高潮を迎えます。
1983年に発表された14枚目のアルバム『レッツ・ダンス』は世界的な大ヒット。
ボウイはまさに時代の寵児となりました。
このアルバムをプロデュースしたのがナイル・ロジャースです。
ナイル・ロジャースは極上のディスコサウンド、ダンスミュージックを演奏するシックのソングライター、ギタリスト。
抜群のキレと独特のグルーブを持つ彼のリズムギターは80年代のポップスを象徴するサウンドとなりました。
ナイル・ロジャースはマドンナの「ライク・ア・バージン」をはじめ、デュラン・デュランやミックジャガーなど数々のアーティストを手がける大物プロデューサーとなります。
そしてこのアルバムのギターといえば、もうひとり大事な人物がいます。
スティーヴィー・レイ・ボーンです。
テキサス出身の白人ブルースギタリストであり、いまだに多くのギターキッズの尊敬を集め続けているレイ・ボーンは、このアルバムで見出されたと言っていいでしょう。
レッツ・ダンスにフィーチャーされた当時まだ無名だったスティーヴィー・レイ・ボーンのギターは、ほとんどのギターファンが黒人の大御所ブルースギタリスト、たとえばアルバート・キングあたりではないか、などと思っていたとか。
たしかに「レッツ・ダンス」でのエンディングあたりのタメにタメたソロのフレーズは今聴いても、もの凄いものがあります。
スティーヴィー・レイ・ボーンはその後ボウイのツアーに誘われますが、ツアーには参加せず、自身のバンド「ダブル・トラブル」での活動を優先します。
そしてレッツ・ダンスで注目されたこともあり、すぐに人気に火が付きました。
ただ残念なことに、1990年8月、出演したブルースフェスティバル終了後に乗り込んだヘリコプターが墜落し、事故死してしまいます。
35歳でした。
アーティスト名:デヴッド・ボウイ
アルバム・タイトル:ティン・マシーン
ワーナーミュージックジャパン
規格番号:WPCR-80101
最後にもう一枚だけ。
レッツ・ダンスの大成功の後、しばらくボウイは次に目指す音楽的な方向性を探っていたような印象があります。
この「ティン・マシーン」は、1989年にデヴィッド・ボウイが結成したシンプルなサウンドのロックバンドでした。
このバンドではボウイの過去のレパートリーを封印。
アルバムを2枚、ライブアルバムを1枚リリースしますが、すぐに自然消滅してしまいました。
このバンドはボウイの音楽の中でも余り評価されていませんが、このバンドにいたリーブレルスというギタリストは、かなりの凄腕で、初めて聴いたときには衝撃をうけました。
リーブス・ガブレルスはその後ソロアルバムを数枚リリースしているようですが、やはりティン・マシーン在籍時の圧倒的な存在感は残念なことに薄れてしまったように思います。
というわけで、ギターサウンドという視点からデヴィッド・ボウイの名曲を選んでみました。
ボウイが卓越した歌手であり、類を見ないパフォーマーであり、ロック界屈指のソングライターであったことは間違いありませんが、未来のスーパーギタリストを見抜くことができた稀代のスカウトマンでもあったのではないでしょうか。
きっと彼がいなければ、ロックギター界はかなり淋しいものになっていたでしょう。
ロックギターファンとしては、その点でも感謝したいと思います。
(Denon Official Blog 編集部 I)